私が初めて太宰治の『人間失格』を読んだ時、
「つまらなすぎて読めたものじゃない」と感じたことを強く覚えています。
小学生の頃は難解な本を読んでいることがカッコいいと思っていたため、
明治時代の純文学を読み漁っていた時期があったのですが、その時に出会ったのが『人間失格』でした。
正直、あれほど読書を苦痛だと思った経験は他にありません。
真冬に半そでのTシャツと短パンで校庭を駆け回っているような無邪気な少年に、
人生に絶望した人間の心理描写なんて分かるわけがないのです。
ただ、それでも『人間失格』のページをめくる手を止めなかったのは、ひとえに負けず嫌いだった
私の性分がそれを許さなかったからです。
小学校で1日に15分だけ設けられていた「朝読書の時間」を使って、少しずつ、その本を読み進めていきました。
読み始めてから1か月ほど経って、ついに私は『人間失格』を読み終えました。
しかし、心の中は虚無感でいっぱいでした。
内容が理解できないのは勿論なのですが、その上、自殺だとか精神病だとか、不穏な言葉の数々。
さわやかな朝の時間帯に読むには最も適さない本だったと、今ならわかります。
結局、それ以降は純文学に挑むのは諦め、小学生向けの易しい本を読むようになったのでした。
申し遅れましたが、今回のブログを担当している渕上です。
前々回のブログで加治屋が書籍購入補助について書いていたのですが、その際に彼が買った本の写真が上がっていたのを見て、私は目を見開きました。
なんと購入した本が一冊、私とかぶっていたのです。
しかも、同時期に同じ本を買っていたというのが驚きを一層加速させ、ブログでこの事実をお伝えしたいと思いました。
ただ、当社の福利厚生である書籍購入補助については加治屋が十二分に説明してくれたので、今回は本にまつわる少年時代の思い出を書かせていただきました。
さて、皆さんは、私が『人間失格』を読んだことについて、なんて意味のないことをしているんだ、と思ったに違いありません。
私も今日までそう思っていました。
だって、意味も分からないのに純文学なんて読んでも仕方がないでしょう。
けれども、私は今回のブログで『人間失格』を読んだ経験について書かせていただきましたが、これは『人間失格』を読んでいなければ出来なかったことです。
教養とは、往々にしてそういったものなのではないでしょうか。
歴史上の人物を覚えることも、数学の難解な公式を覚えることも、日常で使わないのだから意味がないと感じることはよくあります。
しかし、ふとした瞬間に滲み出てくるもの。それが、教養であり、本を読むことによって得られるかけがえのない経験であるような気がします。
勿論私は教養がないので、様々な試験に落ちたり、なけなしの体験談を引っ張り出してブログを書いたりしているわけですが、今後いろいろな本と巡り合う中で、教養を身に着けられれば良いな、と感じています。
なんだか締まりのない結末ですが、本日はこれにて。
身勝手な自分語りとなりましたが、何卒ご容赦ください。
募集要項をご確認の上、ご応募ください。