日酸TANAKAを知る
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【カンパニー・ヒストリー】
“鉄を溶かして切る技術”で、ニッポンの発展を支え続けていく

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「田中亀久人賞」という、日酸TANAKAの創業者の名を冠した表彰制度がある。1968年以降、一般社団法人 溶接学会が「ガス炎を利用した溶接・切断・工作等及び溶接技術全般に関し、研究・技術開発についてその業績顕著な者」に授与しているもので、これまでに三菱重工業、川崎重工業、神戸製鋼所、大阪大学など、錚々たる顔ぶれが受賞している。日酸TANAKAは、「鉄を溶かして切る」テクノロジーに関しては「表彰される側」ではなく「表彰する側」なのだ。今回は、1917年の創業以来、100年を超えて1つの分野の技術を突きつめ、日本の発展に貢献し続けている日酸TANAKAの歴史を追う。

【1917年~】

現代に受け継がれる創業時からの4つのDNA

後に“テクノロジーの聖地”へと変貌することになる、東京・アキバ。1917年、当時は貨物だけを扱っていた、鉄道の秋葉原駅の近くに、小さな工場が設けられた。「酸素ガス炎を用いて、鉄板を切断・接合するためのツール」を製造する工場だ。明治維新から半世紀そこそこの日本で、それは最先端のテクノロジーだった。この工場設立こそ、100年以上の時を経て、売上高204億7,800万円(2024年3月期)・従業員数376名(2024年3月末)を誇るまでに成長した、日酸TANAKAのスタートである。
 
創業者は田中亀久人。故郷の長野県で刃物などを商ったのが、彼の原点だった。「買い手に満足を与えるためには、まず自分がその品物についてよく知らなければならない」と、金属製品について徹底して調べ、精通するように。そして24歳の時、立身出世の志を抱いて上京する。
 
田中が目にしたのは、大都会・東京の街中に捨てられていた多くの金属製品。それを集め、目利きして、メーカーへ販売するリサイクル事業を始めた。現代でも賞賛されそうなエコロジカルなビジネスで資金を獲得。そして、金属に関するエキスパートとしての地位を確立した彼は、金属に関わる様々な相談に乗っていた。その中で、鉄板の溶断・溶接の技術に触れる。「まだ国内で知られていない、この技術には大きな可能性がある」。田中はそう考えて、現代風に言えば“ベンチャー企業を起業”したのだ。
 
その後、1923年に発生した関東大震災で工場が被災。大打撃を受けたものの、東京の復興事業に伴い、鉄板の溶断・溶接の需要が急増し、田中のビジネスは拡大していく。さらに、日本が戦争への道を突き進んでいった時代の要請を受け、軍需によって業績を伸ばした。当時と現在では、経営体制も企業規模も全く違うが、それでも「日酸TANAKAのDNA」と呼べるものが受け継がれているのも確かだ。主なものを4つ、あげてみよう。
 
1       国家の発展に貢献する
2       未知の技術領域に挑戦する
3       ユーザーに寄り添う
4       人材を育てる
 
1       国家の発展に貢献する
当時、「酸素ガス炎を用いて、鉄板を切断・接合するためのツール」はフランスやドイツからの輸入に頼っていた。これを国産化することで、外貨を失わずに、鉄板加工を効率化。日本の産業発展に大きく貢献した。現在では、厚板の切断機を市場に提供することで、橋桁やタワー、タンカー、建設機械などの生産に貢献。日本経済の発展に“縁の下の力持ち”となっているほか、日酸TANAKAの技術・製品を海外に輸出することで、直接、外貨を稼いでもいる。国の発展に貢献する姿勢は一貫しているのだ。
 
2       未知の技術領域に挑戦する
創業の頃、「酸素ガス炎を用いて、鉄板を切断・接合するためのツール」は、大柄な欧米人向けのものが多く、これを小型化・軽量化することが国産化に当たっての課題だった。それまで日本で生産されていなかったツールについて、ただコピーするのではなく、日本人向けに改良するという、難易度の高い技術課題に挑戦し、実現した。現在の日酸TANAKAは、レーザで厚板を切断する大型機械の開発では、グローバルでもパイオニアとして知られる。常に新しいテクノロジーに挑む姿勢が、受け継がれている。
 
3       ユーザーに寄り添う
創業時の日酸TANAKAの独自技術に、「酸素ガス炎の逆流防止弁」がある。炎の逆流によって溶断・溶接を行う作業員が火傷を負うのを防ぐための工夫だ。田中は「溶断・溶接に伴う事故が起きた」と聞けば、どれほど遠方でも出かけて、原因を調べ、製品の安全性の向上に活かした。その成果がこの防止弁の開発につながる。現在でも、営業職だけでなく開発職も、日酸TANAKAの製品を使っているお客様の現場に出かけてニーズをくみとる気風は健在。その中で、たとえば「削りカスが付着しないように、キレイに切断できる機械」を開発した。ユーザーの立場に寄り添う姿勢は、不変のものだ。
 
4        人材を育てる
工場設立当初は、「金属の溶断・溶接技術」に知見があるのは、田中だけだったという。田中自身が辛抱強く技術を伝授することで、未経験者を育成していったのだ。その結果、“技術屋の楽園”と言われるほど、自由に研究・開発・改良に取り組める風土ができ、その環境を求めて優秀な人材が集まるように。現在でも、最新鋭のレーザ切断機の開発に当たって、3D CADを駆使して斬新な流線型ボディをデザインするなど、技術者達が存分に腕を振るっている。

【1945年~】

大型切断機を開発して高度経済成長に貢献

「生産力の差であった」。1945年、第二次世界大戦時の空襲により、東京の工場も田中自身の自宅も被災。その焼け跡を眺めながら、田中は日本の敗因を、国としての工業生産能力の差に求めていた。実は、田中自身は、敗戦を機に事業をたたみ、引退するつもりだったという。それを引き留めたのは、社員達だった。「日本の復興に、自分達の技術が必ず必要とされる。事業を継続するべきだ」と。それに応じ、東京・板橋に再建された工場と、戦時中に軍の要請で工場を疎開させる予定だった長野の地に、新たに設立された工場の2工場体制で、日酸TANAKAは再出発する。
 
戦災からの復興需要で、戦前にも増して事業が拡大。そこで得た資金を元に、日酸TANAKAは新たな技術領域に挑戦する。それが、作業員が手に持って溶断・溶接する器具から、自動的に溶断を行う大型機械へと、シフトすることだった。米国では既に、そうしたマシンが登場しており、敗戦時に田中が痛感した日米の「生産力の差」をつくりだす原動力にもなっていた。その技術を導入し、1950年に「自動ガス切断機KT-3」を開発。折からの朝鮮戦争で、国連軍からの発注により、日本の工業界が活況に沸いた中で、こうした自動切断機の需要が急伸。日本経済の再興と歩調を合わせるように、日酸TANAKAも成長していった。
 
大型機械の生産が活発化すると、板橋工場の狭さが問題化。そこで、埼玉県三芳町に板橋工場の約4倍の敷地を確保。1967年に本社機能と工場を移転させた。その前年の1966年には創業者・田中亀久人が逝去。日酸TANAKAの新たな時代が幕を開けようとしていた。

【1971年~】

厚板用のレーザ切断機で世界的パイオニアに

日本の高度経済成長の波に乗って企業成長を遂げた日酸TANAKAにとって、その波が途絶えた時が、大きな転換点になった。日本円の対ドル相場が急上昇して輸出拡大にブレーキがかかった、1971年のニクソン・ショック。中東での戦争に伴い、産油国が石油価格を値上げしたことで日本にインフレをもたらした1973年のオイル・ショック。この2つの危機を経て、日酸TANAKAの業績も低迷。1975年から3回にわたって希望退職者を募るなど、人材を大事にしてきた伝統の中で“苦渋の決断”をしなければならないほど、危機的な状況に陥った。
 
この苦境から脱した主な要因は2つある。1つは、日本酸素グループの支援を受け、経営を立て直したこと。もう1つは、新たな技術的な挑戦を行ったことだ。産業用ガスの供給では日本トップクラスである日本酸素グループにとって、日酸TANAKAの製品が売れた先では、必ず産業用ガスの需要が発生するので、元々、重要な協業相手と見なしていた。そして、経営再建が必要になった1979年、日本酸素グループが創業者一族から株を買い取って筆頭株主となり、経験豊富な役員を経営陣として送り込むなど、手厚い支援を行ったのだ。
 
 
技術開発の面では、厚板用のレーザ切断機の開発がある。この分野では、日酸TANAKAは世界的にもパイオニアと見なされており、「先進国の技術を日本向けに改良して導入する」というところから一歩、踏み出して、世界の先陣を切るまでに技術レベルを高めた証しになった。
 
もっとも、それを実現するまでの道のりは険しかった。米国でレーザ切断機の原型が考案され、日本に紹介されたのは1965年頃。そこから日酸TANAKAの技術陣が試行錯誤を重ね、1979年には炭酸ガスを用いたレーザ加工機の開発に成功、2年後には板金用レーザ加工機の販売を開始している。しかし、日酸TANAKAの得意先である、鉄鋼や造船分野で需要の高い厚板を切断するマシンは、当時のレーザ発振器のパワーが不足していて開発できなかった。
 
潮目が変わったのは1988年。大手ロボットメーカーが従来のものより強力なレーザ発振器を開発したのだ。日酸TANAKAがこれを用いた厚板用レーザ加工機「LMXシリーズ」を発表したのは、翌1989年7月のことだった。短期間で世界初とされるマシンを開発できたのは、「十分なパワーのある発振器さえできれば、すぐにマシンを作れる」ところまで、関連技術を全て準備していたからだ。その後、日酸TANAKAはレーザ切断のリーディングカンパニーとして、業界を牽引していく。

【2002年~】

新技術分野と海外市場の開拓で未来をつくる

2002年、それまでの「田中製作所」から、現在の「日酸TANAKA」へと社名が変わった。日本酸素の産業機械部門と、日本酸素グループの営業を引き受けていた日酸商事、そして田中製作所の3者を統合。新たなスタートを切ったのだ。これにより営業部門の陣容が飛躍的に拡大。また、溶断にも溶接にもニーズのある顧客に対して、両方のマシンを販売できる体制を整えた。当時は2000年のITバブル崩壊や2001年の米国同時多発テロなどがあり、景況は振るわなかった。その中で、最大限の合理化・効率化を追求するための体制を整えたのだ。
 
2003年以降、世界経済は中国の著しい経済成長もあって、徐々に回復。新体制発足後、すぐに追い風が吹いたことにより、日酸TANAKAは成長軌道に乗っていく。そのための武器は、今までと同じく、技術力の向上にあった。主力商品の1つに成長していたレーザ切断機の分野では、2011年に「FMRシリーズ」を発表。「LMXシリーズ」と比べると、発振器のパワーは2.5倍。光ファイバーによってレーザ光を伝送することもあって、従来機よりもはるかに切断力とメンテナンス性が高く、ヒット商品となった。そんなFMRシリーズは現在シリーズ最新の2022年にFMRⅢを発売し多くのファンを獲得している。
 
レーザ切断機以外でも、技術開発の面で、未来を見据えた研究が進んでいる。1つはAIやIoTを用いた、全自動の切断技術の実現。少子高齢化の影響は加工現場においても深刻で、熟練技術者が相次いで退職しているのに、若手人材は不足している。その中で、無人で加工できるテクノロジーが切実に求められているからだ。さらに、全く新しい分野への進出も構想している。
 
さらに、日本経済が低成長を続ける中で、海外市場の開拓も重要になってきている。これまでにタイ、中国、アメリカに現地拠点を設けて、販売とメンテナンスを手掛けていたが、2022年にはベトナムにも駐在員を派遣。マーケティング活動を行っている。
 
着々と未来への基盤を整えている日酸TANAKA。新たな発想をもってジョインする、新たな人材と一緒に「次の100年」を切り拓こうとしている。

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